老人ホームへの出前パフォーマンス&WS
Dance&Peopleが大山崎で行っているワークショップ「からだをつかってあそぼ」。2011年頃から私はここに通いはじめている。今日はこの「からだをつかって」メンバーで、洛和ヴィラ大山崎という老人ホームに出前パフォーマンス+ワークショップをしにいきました。
詳しくは、ダンス&ピープルのサイトに情報が載っています。
3/30(土)「からだをつかってあそぼ」出張版!-Dance&People
道中(といっても寄り道しなければ徒歩10分圏内)、本番に必要な葉っぱを採取。なんの種類か分からないけど、とにかく、瑞々しい青葉から水分の抜けたからから葉っぱまで幅広い世代の葉っぱを。干上がって真っ黒になった花梨の実(掌サイズ!)も。とにかく道にあった植物は色々調達。
ぽかぽかとした春の陽気、大山崎のなだらかなお山、うねうねとした西国街道の道のり、すらりと通るJRと阪急の路線(絶好の写真スポット)。メンバーのなかに詩作をするやすこさんのことばのイメージと重なる風景。
春
蛇
筍
木ノ芽 …
ホームに到着すると、会場となるカフェスペースの椅子を円形に並べて準備をする。ひろってきた葉っぱも並べる。円形の内側に葉っぱの点線ができた。
職員のおばさんに、何の葉っぱ?良い匂いがするの?と尋ねられる。
ようやくパフォーマンス開始。出前ちんどんのように、民族楽器、小鍋とミキサー、チーンとなる音具(レストランのレジにあるあれ)、へんてこな透明の帽子…などをもった面々が入り口から登場。そのまま会場をうろうろ。
おばあさんは、パフォーマンスしている私たちにふつうに質問をしてくれる。
— それなにー?
— これは花梨の実なんですよ
黒いころころした物体がおばあさんの掌にすっぽりおさまった。
ぽんぽこりんっ!ぽ ぽ ぽんぽこりーん
誰かが発している。え、おならのブーは打ち合わせであったけど、ぽんぽこりんって…。
その声の主は、一番端にいたおばあさんだった。
そうかつまるところ、わたしたちは、ぽんぽこりん、な感じなのね。
ブー プー ふあー ぽん ぽんぽこりん
変わっていく変わっていく。
声に合わせて、からだもうごく。
そしたら、別のおばあさんから心配と忠告。
— 頭打たんときやー
やすこさんとわたしとの葉っぱのデュオダンスwith黒子さんのカリンバ+たかひろくん。
リハでは葉っぱが乗っかった部分とからだの動きを自分で楽しんでいる傾向があったけれども、本番前の黒子さんのナビもあって、このときはやすこさんと一緒になって葉っぱを感じている、そういう二人の関係性みたいなものがあった気がした。
葉っぱのダンスは、そのままおばあさんたちへとつながる。
葉っぱや花びらをおばあさんの掌や手首、腕にちょこっとちょこっと乗せてみる。とても丁寧に受け取ってもらえた。特別な瞬間に感じた。さっき花梨の黒いコロコロを渡したおばあさんは、わたしを呼び寄せてそれを返した。
指先と指先を触れ合い、お互いのからだの動きを聴きあうのですが、やすこさんの詩的言語感覚にかかると、訥々とした語りからどんどんイメージの連鎖が起こる。うまく言えないのだけれども、感覚的に腑に落ちる。
指ダンスを一緒にしたお相手の方は、少し耳が遠く、柔らかくクリアな瞳の持ち主でした。
手を合わせたとき、
— 温かい手やねえ
— 冷たくて気持ちいいです
親指と小指がぐーっと伸びたら
— オクターブが届きそうや
— ピアノ弾かれるんですか?
— 兄弟がやっていたから
— そうですか、でもすごく伸びますね
— いや、これ奇形や。ほら、右と左でちがうやろ
— ほんとうですね、左がちょっとだけ長いですね
手と手を上下に重ねて上げたり下げたりしたので
— そのまま立てますか?
— いや立てへん
— じゃあ座ったままでしましょうか
指ダンスには、ちょっとした会話が入るゆとりがある。WS後の感想でも話題になったことだけど、触覚の記憶からことばがぽろっとでてきて、次の瞬間ひゅいっとその人の個人的なエピソードを聞くことになる。おもわぬところに回路がつながるのが、予測不能で面白い。
おじいちゃんは電車に乗るのが怖いと言った
おじいちゃんは電車に乗るのが怖いと言った。それを受けて、
祖父は仕事でKトラを乗り回す。安全運転の秘訣は、結局はアイコンタクトや、と言う。
わたしは普段、あたりまえに電車やバスで移動している。
わたしは小学校2年生で初めてひとりで電車にのった。オトナへの第一歩のような気がした。自分で外の世界を乗りこなしているような感覚があったのかもしれない。
動くものにからだを乗せている。
ガルシア=マルケス『100年の孤独』を再読する。
1月4日
2日からぼちぼち読み始めて、今半分ちょっと。
ウルスラ母さんを起点にしたとして、只今、四世代が混在している状況。おまけに「ホセ・アルカディオ」系と「ブエンディーア」系の名前が繰り返し子息に命名されるので、読書を中断し再開する段になると、手製の系図なしには物語に追いつかない。
もはや、この読書を継続していられる要は、100歳を超したウルスラ母さんが存命だから。そして、この一族がこの街(マコンド)を開拓し、居を定めた時代のノスタルジー※が、所々に想起させられるから。そして、戦争以降の子孫の惚れた腫れたの繁栄はあまりにも日常茶飯。
※ジプシーのメルキアデスが街にもたらし、曾祖父ホセ・アルカディオ・ブエンディーアが虜になった三つの「科学」
①磁石
この棒を持って街を歩くと、家々の鍋から昔なくなった物までが転がるように追ってきて、釘と木材は悲鳴を上げる
「物にも命がある。問題は、その魂をどうやって揺さぶり起こすかだ」
②レンズ
「科学のおかげで距離なんてものは消えた。人間が地上のすべての出来事を、居ながらにして知ることができるようになるのも、そんなに遠いことじゃない」
③氷
(注。このときメルアデスは一旦死んでいるので、正確には別のジプシーのテントにて氷の塊を初めて前にして)
「こいつは、世界最大のダイヤモンドだ」
「冗談じゃない
氷ってもんだ、これは!
さわりたけりゃ、もう五レアル出しな」
「煮えくり返っているよ、これ!」
「こいつは、近来にない大発明だ!」
1月5日
「鉄道」がやってきた。むかしは、街にやってきて人々を驚かせたのは、ジプシーであり、サーカスだったが、「鉄道」はあらゆる利器をもたらして、街に流れる時間を速くしていった。バナナが、バナナに目をつけたアメリカ人が、広大なバナナ農園を展開し、そこに多くのよそ者がやって来た。好景気に湧いた。その間に、小町娘のレメディオスは、中庭に干したシーツと一緒に一息の風とともに天空へ昇天していった。ウルスラは百をとうに越していたが健在で、右手を壁に沿わせて家中を歩き回っていたが、実はそれが、ほとんど盲目であったからだということに気付く者は、結局だれもいなかった。アウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、この狂乱に業を煮やして、再び若かりし頃の反乱を企てたが、誰にも相手にされず、魚の金細工を25個作っては溶かし、再び作るという日々を繰り返し、ある日栗の木の下で息絶えた。
1月8日
四年十一ヶ月と二日間、マコンドに雨が降り続いた。雨は、あの不眠症が伝染した時のように、人々を無気力にさせた。時間は流れながらも、その実、静止しているようだった。放蕩の限りを尽くしていたアウレリャーノ・セグンドも、憑き物が去ったようにおだやかな日常を送るようになったが、その暮らしぶりは覇気が感じられないものでもあった。ウルスラは耄碌状態ではあったが、しぶとく生き続けていた。雨がようやく止んだ時、彼女は再び覚醒し、家の修繕にとりかかった。
それにしても、まるでこの家は生き物のようだった。手の付けようもないほど荒れ果てて、これ以上無理だという限界がやってくると、誰か一人がが驚くべき気力であちこちの綻びを立て直した。この物語においては、たいてい乱痴気騒ぎか無関心で家をぼろぼろにさせるのは代々の男たちで、家は、まるで共犯であるかのように自分の姿を何通りにも変化させるのだった。その家に挑み、抗おうとしたのは、ウルスラをはじめとして、それぞれが別の頑固な一面を持ち合わせた、代々の女たちだった。
1月11日
家系の出来事を辿っていくと、遂にそれはひとつのまん丸な円環となった。
輪になった途端に、きれいに消滅してしまった。
「アウレリャーノ」の名を持つ最後の男が、孤独のために知に引き戻されたとき、すでに消滅の現象が接近していた。それは、竜巻のような螺旋を空に描いて、この男ひとりの身体と記憶を通して引き起こされる、長年の謎解き(エニグム/カタルシス)を無数に引き起こしたのだった。
この円環の閉じられは、生にどん欲であったが死にはあまりにも素っ気無かった、この家系の気質を顕しているかのようであった。
一、二、三、四、五…。人数が増える程に、関係性や役目が複雑に絡み合う。時間の流れとともに、この人数は増えたり減ったりするが、常に変わらないのが一という数字。
孤独とは、ロンリーではなく、ソロ。(via桜庭一樹)
読了。
年末年始のおこない
あちらとこちらの跨ぎ越し。
年末は、画家の児玉靖枝さんの個展を見に行くために花隈へ向かいます。目線では、壁に掛かった絵を追い、身体は階段と踊り場をゆっくりと移動していく。《深韻》というテーマに、視線と気配を傾けながら、じっくり時間を掛けて階上していきます。上へ行く程、暖房の熱も上昇して上階に溜まっているので、頭がだんだんぼーっとしてきます。画廊のオーナーのおじさんが吸っている、葉巻の香りも。
年始は、蹴上のアートスペース虹さんで、堀尾貞治さんの個展です。先着百名にその年の干支のオブジェがもらえます。結構、マイコレクション集まってきています。《あたりまえのこと》というテーマで毎年色んな展示をされます。作品のベースとなる、日々の行為の積み重ねを「おえかき帳」の束という物量で目の当たりにされます。店主の熊谷さんとのお話も、自分の暮らしの振る舞いに鑑みてみると、滝に打たれたような気分になって毎回頭が上がりません。こちらがほんとの初詣になっています。それにしても、このスペースは、茶室のようだなあ、とつくづく思います。
年末年始の休暇中には、なにか一冊、できれば長編の本を読むことにしています。このおこないは、今年で4年目。
3年目は、星野博美「コンニャク屋漂流記」
そんなに長編でもないのですが…。できれば長編を読める体力を身につけたいなあという意志が、一応あるんです。
それで今年は、2年目に最初のたった10pで諦めてしまった、井上ひさし「吉里吉里人」にしようかなあ、とも思っていたのですが。思うところがあって、「百年の孤独」を再読することにしました。それというのも、自分が気になっていることの一つに、“ルーツや家系にまつわること”が挙げられることに気付いたためです。過去に読んだ本を振り返っても、「恍惚の人」は、ちょっと別枠だけれど、他の二つは実は繋がっているように思います。さらに、年末年始読書とは別で、これに加えるとすれば、桜庭一樹「赤朽葉家の伝説」。さらにさらに、これらの関連書籍としては、六車由美「驚きの介護民俗学」、上原義広「日本の路地を旅する」、宮本常一「忘れられた日本人」、中沢新一「大阪アースダイバー」、沖浦和光「竹の民俗誌—日本文化の深層を探るー」、「インドネシアの寅さんー熱帯の民俗誌」、六車由実「神、人を喰う」…
喰う、といえば、、、
毎年父の友人である宮津の漁師から、鰤をまるまる一匹贈られてくるのですが、ここ3年くらい、父指導のもと、鰤を捌くことが恒例行事のひとつとなっています。来年は、捌いた骨で標本をつくりたいなあ。
わーのだいすぎだもの
とても良い歌だと思ったのでノートします。
バラに たもすがる(ぶらさがる≒滴る) 雨コの雫
ちゃっぺ(子猫)の ひげコと きがきが(きらきら)の 星コ
ぬぐだまる(温かい) てげし(手袋)と 茶色の袋っコ
みんな わーの(私の) 大好ぎだもの
めんごい(かわいい) 馬ッコと りんごの 菓子コ
橇の鈴コと カツレツとスパゲチ
まんどろ(まんまる)な 月コさ(を背景にして) 翔ぶ渡り鳥
これも わーの 大好ぎだもの
青い はんちゃ(どてら≒衣装)の めごい(かわいい) あだこ(子守の子≒女の子)
まづげ(まつ毛)さと 鼻コに ねっぱる(付いた) ゆぎ(雪)コ
春に(に向かって) 融げでぐ 銀色の冬ッコ
あれもこれもみな大好ぎだ
犬コにかじらえだり(齧られたり) 蜂ッコに刺されだり
もう まいね(まいったな)ど思っても
好ぎだもの思いだへば なんも けなんだね(悪いと思うことは何もない≒幸せだ)
※youtubeコメント欄shin3296さんコメントを参照
音姫
トイレの個室によく音姫という機能が付いています。ボタンをおすと一定時間、流水音が流れる装置です。
この音についてのある発見。
それは音姫から、ミニマルミュージックのようなものがきこえてくるというもの。いちどそのフレーズを聞き取ってしまったら、もうその音階とリズムから逃れられません。しかし、音姫が鳴り止むと、すっと消えてしまいます。しかも、もう一度ボタンをおしたところで、二度とその同じフレーズを聞き取ることができない。
そもそも音姫の音は、小川のせせらぎをイメージした人口音です。その用途は、現実の音を消すための音。たとえば、鉛筆で書いた線は消しゴムで消すことが出来ますが、音という物体のないものを消すことはできません。
森に木を隠す方式で、特定の音を消すために、たくさんの音素が散りばめられている。これを、ある人は混沌と言い、ある人はノイズフルと言い、ある人は宇宙と言うのかもしれない。そんな仕掛けを持つ音姫とは、あらゆることを選別してしまうヒトの営みに対する大いなる挑戦なのかもしれない。
は じ き
ダンサーの栩秋太洋さんの『山(仮)』制作過程と、リサーチワークの資料を見に行きました。@京都芸術センタ—
久しぶりに、算数の方程式を思い出しました。
は じ き の 法則
は 速さ=距離÷時間
じ 時間=距離÷速さ
き 距離=速さ×時間
リサーチの資料展示では、地図上に実際の山の土がいくつか盛られてあった。そして、あの山と、いまこことの時差が書き添えられている。それは56秒とかコンマ0とかの厳密さで。
国や地域で標準時間を決めるから、みんながこの時間をイーブンにもっているのだけど、そもそも地球はまわっているんだから、時計の針が地球をまわっているとしたら、厳密にはたとえ隣の部屋であっても、そことこことの時差はある。山の土でできた小さな山と数字によって、そんな想像をめぐらすことになった。
それは、「ここ」ではなければいけない地点で、「ここ」ではなければならない一歩になる。
今回の栩秋さんのテーマは、ずばり『私は山なのではないか?』。
そして、わたしは、なぜかこんなポエムが浮かんだ。
向こうのお山が、ずずいと移動
一歩こちらにやってきた
そちらの石が、ポンと跳ね飛び
土に接して震えてる
かなたの船が、眠りをもとめ
浮き沈み傾き崩れ風になる