蛙の余波

この冬は、影・川・街・蛙と異なる作品やプロジェクトへの出演や制作がつづいた。ようやくひと段落して、春近しと木々が芽吹きはじめた三月半ば、久しぶりのソロダンスへ向けた準備にとりかかった。FOuR DANCERSという企画で、私はここで踊るとき、作品やテーマ性も大事だけど、いかに生き生きとした自分のダンスが踊れるかを意識してのぞむことにしている。そういう状態になるための構成を作り、また表象としてのイメージを膨らませることが、自分にとっての振付、なのかなと最近思っている。しかし、私はその準備期間の一週間、さてどうしようかと途方もない気持ちになっていて、仕方がないので木ノ芽時の植物の様子を見て、気持ちをゾワッとさせることしかモチベーションをあげる手だてがなかった。よいしょよいしょしながらの苦しい創作となった。

影・川・街・蛙を経た身体と精神が、元の居場所が分からずにさまよっている感じだった。

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とくに直近の「だんだんたんぼに夜明かしカエル」(蛙)は、全体が有機的に変化するなかで、徐々に個人の身体の境界が曖昧になり、その場が渾然一体、一つの生命体となるような舞台だった。出演者個人の身体を際立たせたり、違いをつくるというよりも、ある摂理のもとに身体を置き、そのなかにいるから身体が動く(蠢く)。群舞でもなく同時多発的というのともちがう、とにかく中心のない生命体という感じだった。巨大なのに微細で、すべてを見通せる人はいない。(東京公演では、アクティングエリアの真ん中に会場の巨大柱があるので物理的に見えなかったりする。)この蛙の世界から戻ってくるのはなかなか大変だった。

コンテンポラリー・ダンスという、規範となる身体技法のないダンス、ダンスの概念を常に問いつづけるダンスから踊りをはじめた自分にとって、ダンスとは、借り物でない自分の踊りを探しつづけることではないかと思っている。もろいバックグラウンドであることを承知しつつ、ここ数年、自分のダンスのスタンスを積み上げようとしていたが、そのような小さな虚栄は歯が立たず、みるみるうちに蛙の粘膜によって溶かされた。蛙の世界はまさに危険ゾーンだった。FOuR DANCERSの稽古で、踊るモチベーション、これだという踊る身体の状態が本番直前まで見つからなかったのはそのせいだったのかもしれない。本番は、私の前に踊ったダンサーや照明、音楽、お客さんなどの色んなエネルギーに触発され、またそんな些末な私事にとらわれて踊れないなどという当の自分への可笑しさもこみ上げてきて、ようやく、あなたの人生の30分を頂きますよという腹をくくることができた。「FOR」DANCERSのお陰で、蛙の余波に揺れた身体からまた新しい変化が訪れた。

 

つづく