想像

今日は大阪市放射能汚染がれき焼却日(試行)ということで、FBやブログなどでは、とてもきめ細かな情報が発信された。

たとえば、外出時は専用のマスクを必ずすること、なければ普通のマスクを二重にして、内側に濡らしたティッシュを入れること。帽子や眼鏡をして、なるべく肌を露出しないこと。帰宅後は衣服から放射線物質を拭き取り、拭き取った布は必ず処分すること。室外の空気が入らないようにすること。もちろん洗濯物は室内干し。などなど。

 

これらのことを徹底させる勇気と切迫感と丁寧さを抱くところまで到達していないわたしだけれども、みえないものがふわふわ浮いているんだよ、ということを事実として受け取れるよう。

 

そして、改めて、川上弘美さんの『神様2011』を読み返した。

 

「では」

 と立ち去ろうとすると、くまが、

「あの」

 と言う。次の言葉を待ってくまを見上げるが、もじもじして黙っている。ほんとうに大きなくまである。その大きなくまが、喉の奥で「ウルル」というような音をたてながら恥ずかしそうにしている。言葉を喋る時には人間と同じ発声法なのであるが、こうして言葉にならない声を出すときや笑うときは、やはりくま本来の発声なのである。

「抱擁を交わしていただけますか」

 くまは言った。

「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」

 わたしは承知した。くまはあまり風呂に入らないはずだから、たぶん体表の放射線量はいくらか高いだろう。けれど、この地域に住みつづけることを選んだのだから、そんなこを気にするつもりなど最初からない。

 

川上弘美『神様2011』34-35頁

 

織物

1.

独り寝の床で、(わたし)はしずかに目を閉じる。綴じ合わされた目蓋のあたりに、(わたし)をさぐる…。

ちりぢりになった(わたし)をかきあつめようと、(わたし)は唇をきゅっと結ぶ。結び合わされた唇のあたりに、たしかに(わたし)はいる…。

脇をしめ掌を合わせたときにはそれに小刻みな振動をさえくわえ、(わたし)は祈る。密着したもやもやとした「肉」のその地帯に(わたし)は(わたし)をせいいっぱい縫いこめる…。

「肉の森の中へー「野生の感性学(aesthetica)」試論ー」梅原賢一郎 http://homepage2.nifty.com/mono-gaku/umehara.htm

 

2.

密閉された袋である、こうしたものすべて、そこに入るのは汲みとられたものだけ、出るのは追い払われたものだけ。この肺、この腸、この袋。この生きた気泡はぼくに属していず、けっしてぼくに属することはあるまい。その頑丈な部屋の内部では数々の思考や欲望が、想像が、夢が、思いつきが生まれる。それはぼくではない。それは一人の女、何百万の女の中の女だ。それは知られえず、理解されえない。この生命はそれ自体に閉じられている、その時間およびその世界に。

「意識」『無限に中くらいのもの』ル・クレジオ

2.

もう一つのこれまた情熱に関わる原動力、それは他者の欲望に盲目的にすがりつきたいという密かな欲望である。ソフィが自分の家で順番に八時間ずつ眠るよう人々を誘うとき、彼女は自分の暮らしから身を引き、そこに他者の暮らしを導き入れる。・・・あなたの人生については別の誰かが考え、その誰かの人生についてはまた別の誰かが考えてくれるというわけで、そうした連鎖のうちに疎外は完全に克服されるのだが、というのもそのときにわれわれはもはや互いの時間、眠り、自由、人生を盗みあう必要はないからだ。

『プリーズ・フォロー・ミー——「ヴェネツィア組曲」のために』ジャン・ボードリヤール、ソフィ・カル『本当の話』に収録

右顎から下に伸びて右肩甲骨へ、そして胃の裏まで

背中が凝るというのは、背中が鈍くなっているということなのか、過敏になっているということなのか。こういうとき、慰めの耽溺のダンス。

 

 

耽溺といえば、 先日お亡くなりになられた、キュレーターの東谷隆司さんのクラシック爆音DJを思い出す。(確かワーグナーかなにかだったかな)金沢21世紀美術館でのセッション。飴屋法水さん×山川冬樹さん×東谷隆司さん。三人とも生で見たのは初めてだったんだけど、飴屋さんや山川さんはわりかし粛々と自分の成すべきアクションをやっているように思えたんだけど(それでも独特のアングラ感はやはりあって)、東谷さんは、そこも飛び越えてただクラシック音楽の世界に脊髄まで浸っているようで、その様子に衝撃を受けた。DJですから、あまり動きはないはずなんですけど、神の降臨を現前としているかのように、両腕を広げた仰々しい身振りに、自己陶酔する人の愛らしさを認識したりして。vivre  ivre!!!!!

ケージとショパン

わたしはジョン・ケージに特別詳しいわではありませんが、思い返せばこれまで、ジョン・ケージへ敬意をいだく人たちと良き出会いをさせていただいてきた。

 

土曜日に、ご近所のサウンドアーティスト吹田哲二郎さんのお家にうかがい、現漢籍ジョン・ケージについての立ち話をしました。そして、9月に鳥取県立博物館の「大きのこ展」の関連イベントとして行われた、ケージのコンサートのプログラム冊子と、最近収録されたCDAmerican Experimentsif piano duoをいただきました。

 

それらの貴重な資料から、

 響き

 ノイズ

 おと

 聴くこと

 立ち居る(ポジション)

とはどういうことなのかと改めて思いました。

 

吹田さんの文章によると、ダンスのための曲をピアノで作曲をしていたケージは、どうしても打楽器的な曲ができない、ということに気付き、その原因は楽器にあると結論づけ、プリペアド・ピアノを考案したそうです。ピアノという自明の楽器をも再考し、新しい楽器に作り替えてしまうなんて!

 

翌日曜日に、昔のピアノの先生からのお誘いで、ショパンのピアノコンサートへ行ってきました。前日に、わたしは一時的とはいえ、ケージ的な土壌にちょっぴり浸っていたので、このコンサートは考えざるをえませんでした。

 

ショパンの音楽を聞いて、

 主旋律とリズム(伴奏)

 バッハみたいな旋律と旋律の追いかけっこ、その呼応

 教会音楽みたいな和音、そして後のドビュッシーみたいな和音、響き

 メロディーを盛り上がらせるための装飾、効果音

など、段落ごとに色々な構造があるように思いました。

で、ショパンという人は、どうも効果音的な語りが多いような気がしました。それで、それっていうのは、とてもピアノと相思相愛ななかから生まれたのかもしれない、という気がしてきました。

 

 

とても素晴らしい演奏だったのだけれども、有名な「別れの曲」のほんの一瞬、ちょっとだけ音の配列が狂った瞬間、ミステイクともいえないその出来事に、演奏者の細やかな指使いに、その身体にはっとさせられた。

 

また、俄に聴くということにカブレて、休憩を挟みながら前方右側、前方左側、後方右側の3カ所の座席で聴いてみました。

前方右では直接的すぎる気がして、左はそれがましで、後方右は響きがより聞こえる気がしました。やたらと縦長のホールで、結果的にどこがいいかはよくわかりませんでした。チェスゲームの駒になったみたいに、自動椅子で、がちゃがちゃと座席が入れ替わったらおもしろいのになあと勝手な妄想をしました。

小4のときのこと

先日、なぜか小4のときの記憶が次々とよみがえってきた。

本当にどうでもよいことばがりだが、せっかくなので記しておこう。

 

思えば先生が度々出張していて、自習が多いクラスだった。毎回、男子にからかわれて泣かされていた。漢字ドリルにひたすら意識を集中させようとしていた。

 

席替えをするという時期、放課後、班長となった6人の子どもと担任とで相談し、班員選びが行われた。籤ではなく、ドラフト制のような決め方だった。歴史の授業の領土争いみたいだった。よりマイルドにするならハナイチモンメ?

 

給食の合掌の前、同じ班の男の子たちが、机の下でなにかをみせあって楽しそうにしていた。それでつい、机を乗り出して、わたしも男の子たちが見ているものをみようとしたら、おや、赤面。トランクスの柄をみせあっていたのだった。

 

夏、下校途中。田んぼの用水路の水が、あまりに透明できらきらしているので、飲んだ。目で見てこんなにきれいな水なんだから、飲めない水なはずはない。お味は、山の水のような、ナマのおいしい水だった。

 

 

置き傘を持って帰らなくてはならない日。わたしは古くなった赤い置き傘をもっていた。下校途中、傘を閉じたまま傘ひもを外して、内側に用水路の水をたくさん入れてみた。傘の中心に穴が空いていたので、そこから水が漏れ出す。グレーの乾いたアスファルトの上に、傘でつくった水の道を描きながら帰った。二人の女の子ともだちと一緒に、この新しい遊びを楽しんでいたら、別のクラスの先生が自転車で通りがかった。ふざけているのを笑っていさめながらも、わたしの子どもやったらぜったいやめというわ、と先生は言った。まじめな生徒だったので、他のクラスの先生にしかられるのは嬉しいようなこそばゆさがあったが、自分の子どもやったら、という学校外のコメントに少なからずショックを受けた。

point/point

所用のため、四条大宮から九条大宮まで、自転車をひた走っていたら、突然ショルダーバックのひもが切れて、かばんが飛び落ちた!お気に入りだったことと、なかにMacBookが入っていたので二重にショックだったが、幸いMacは無事で、鞄はひもが切れたのではなく、留め具が壊れたのだという事実は確認できたのだが、理不尽なめにあったという気持ちがショワショワしていて、その衝動が充分に落ち着くまで、その場でやり過ごした。ようやく別の袋にかばんの中身を入れ替えて、さあ出発、というところで足許を見やると、大きなオニヤンマの屍骸。オニヤンマも、ここで何かに出逢ったとみた。

祖父の土地 因縁のプール

数年前のある日、わたしは祖父と散歩をしていました。

歩きつ喋りつしているとき、祖父は何気なく道端に生えていたススキのような植物を手に取って、口にくわえました。まるで時代劇で股旅がそうするように。本当に堂に入った手つきで。

その何気ない仕草に、わたしの知らない祖父の育ってきた土地、環境、営みを垣間見た気がして、とても驚愕しました。

 

この出来事をきっかけとして、ずっと祖父の故郷、和歌山県花園村に行きたいと思っていたのですが、このお盆にようやく実現することができました。

 

 

 

わたし、父母妹、祖父母の6人でワゴン車に乗り込み、京都からひたすら国道を南下していきます。

往路の車中、「過去帳」で家系図をみてみました。

わたしの祖父の正治は、曾祖父 市次郎の10人の子どもたちの末っ子で御歳78歳です。市次郎は二度も奥さんに先立たれ、正治の母は3人目の奥さんでした。

家系図をみていると、色々知らなかったことが見えてきます。たとえば、市次郎の初婚と再婚の奥さんは姉妹だったということ。また、一族の他に3、4つの名字が頻出していことから、おそらく同じ村の異なる家族内での婚姻が慣習的に行われていたようであること。

こうして家系図を俯瞰してみると、制度としての結婚と生殖としての結婚が、ありありと浮かび上がってきます。それぞれの当事者にとっては一大事であったでしょうが、その行いの根底に、絶やさず生存するということへの切実さと実行力が潔いとも思いました。

 

また、(母曰くラジオの如くおしゃべり好きな)祖父からは、興味深い様々なエピソードを聞くことができました。

たとえば、市次郎に起こった度重なる災難のため、村の祈祷師のような人物に相談したところ、改名をすすめられ、その名前が現在のH家であったこと(Fではないよ)。奥さんだけでなく、からだの弱い息子も相次いでなくなり、そのうちの一人は、不治の病を憂いて近くの池で足に自ら石を括り付け自死したこと。また、つい昭和の30年代までは、村の葬式は死者を円筒型の棺桶に正座をさせ、土葬を行っていたこと。などと、まるで横溝正史の小説世界のような話がでてくるではないですか。

 

一所興奮したところで、いつのまにか急カーブの山道を登っていました。

そのてっぺん付近の道の脇に、小さな墓地があります。そこに代々の墓がありました。しかし、これは近年できた新しい墓地なのでした。本当の墓場は、急斜面を降りた谷底にあったのを集団移設させたとのこと。谷底の旧墓地は、まさに土葬が行われていたところで、歩くと土がふかふかだったそうです。

墓地のすぐ近くに御宮さんがあるので、祖父に案内されました。

お宮さんの隣には小さなゲートボールコートがあり、百日紅の花が美しく咲いていました。祖父曰く、この百日紅から(おそらく祝い事などで)お金を撒いたそうです。神社の寄進者札を眺めていると、部谷(HEYA)家の他に、平家という名があったので、祖父に質問すると読みは「ひらや」なのだとのことですが、私はもしかしたら平家の落人かもしれないとファンタジーを一層募らせました。

 

祖父は、お宮さんの向かいにある古びた小さな野外プールに向かいました。

今では使用されておらず、貯水槽代わりになっています。門の蝶番があいたので中に入ってみました。なんとこのプールは市次郎が造ったものだというのです。

市次郎は、ボランティアで村の学校へ紙芝居をしたり、こうしたプールを造ったりという活動を、自前で行っていたそうです。林業や養蚕、農作などで生計を立てつつ、こうした活動に出費していたため、妻のミツエはかなり苦労したそうです。そして遂に、このプールの造営によって、とうとう離婚騒動にまで発展したというのです。

この離婚騒動が、祖父の生まれる前か後の出来事なのかは聞きそびれましたが、祖父はミツエが42歳の時に出来た子どもなので、もし、生まれる前に市次郎とミツエが離婚していたら、祖父も母も私もこの世に生まれてくることはなかったわけです。

鄙びてしまったプールには、今では大きくてたくましいアメンボが悠々と水面を滑っていました。