祖父の土地 因縁のプール

数年前のある日、わたしは祖父と散歩をしていました。

歩きつ喋りつしているとき、祖父は何気なく道端に生えていたススキのような植物を手に取って、口にくわえました。まるで時代劇で股旅がそうするように。本当に堂に入った手つきで。

その何気ない仕草に、わたしの知らない祖父の育ってきた土地、環境、営みを垣間見た気がして、とても驚愕しました。

 

この出来事をきっかけとして、ずっと祖父の故郷、和歌山県花園村に行きたいと思っていたのですが、このお盆にようやく実現することができました。

 

 

 

わたし、父母妹、祖父母の6人でワゴン車に乗り込み、京都からひたすら国道を南下していきます。

往路の車中、「過去帳」で家系図をみてみました。

わたしの祖父の正治は、曾祖父 市次郎の10人の子どもたちの末っ子で御歳78歳です。市次郎は二度も奥さんに先立たれ、正治の母は3人目の奥さんでした。

家系図をみていると、色々知らなかったことが見えてきます。たとえば、市次郎の初婚と再婚の奥さんは姉妹だったということ。また、一族の他に3、4つの名字が頻出していことから、おそらく同じ村の異なる家族内での婚姻が慣習的に行われていたようであること。

こうして家系図を俯瞰してみると、制度としての結婚と生殖としての結婚が、ありありと浮かび上がってきます。それぞれの当事者にとっては一大事であったでしょうが、その行いの根底に、絶やさず生存するということへの切実さと実行力が潔いとも思いました。

 

また、(母曰くラジオの如くおしゃべり好きな)祖父からは、興味深い様々なエピソードを聞くことができました。

たとえば、市次郎に起こった度重なる災難のため、村の祈祷師のような人物に相談したところ、改名をすすめられ、その名前が現在のH家であったこと(Fではないよ)。奥さんだけでなく、からだの弱い息子も相次いでなくなり、そのうちの一人は、不治の病を憂いて近くの池で足に自ら石を括り付け自死したこと。また、つい昭和の30年代までは、村の葬式は死者を円筒型の棺桶に正座をさせ、土葬を行っていたこと。などと、まるで横溝正史の小説世界のような話がでてくるではないですか。

 

一所興奮したところで、いつのまにか急カーブの山道を登っていました。

そのてっぺん付近の道の脇に、小さな墓地があります。そこに代々の墓がありました。しかし、これは近年できた新しい墓地なのでした。本当の墓場は、急斜面を降りた谷底にあったのを集団移設させたとのこと。谷底の旧墓地は、まさに土葬が行われていたところで、歩くと土がふかふかだったそうです。

墓地のすぐ近くに御宮さんがあるので、祖父に案内されました。

お宮さんの隣には小さなゲートボールコートがあり、百日紅の花が美しく咲いていました。祖父曰く、この百日紅から(おそらく祝い事などで)お金を撒いたそうです。神社の寄進者札を眺めていると、部谷(HEYA)家の他に、平家という名があったので、祖父に質問すると読みは「ひらや」なのだとのことですが、私はもしかしたら平家の落人かもしれないとファンタジーを一層募らせました。

 

祖父は、お宮さんの向かいにある古びた小さな野外プールに向かいました。

今では使用されておらず、貯水槽代わりになっています。門の蝶番があいたので中に入ってみました。なんとこのプールは市次郎が造ったものだというのです。

市次郎は、ボランティアで村の学校へ紙芝居をしたり、こうしたプールを造ったりという活動を、自前で行っていたそうです。林業や養蚕、農作などで生計を立てつつ、こうした活動に出費していたため、妻のミツエはかなり苦労したそうです。そして遂に、このプールの造営によって、とうとう離婚騒動にまで発展したというのです。

この離婚騒動が、祖父の生まれる前か後の出来事なのかは聞きそびれましたが、祖父はミツエが42歳の時に出来た子どもなので、もし、生まれる前に市次郎とミツエが離婚していたら、祖父も母も私もこの世に生まれてくることはなかったわけです。

鄙びてしまったプールには、今では大きくてたくましいアメンボが悠々と水面を滑っていました。