みえないしっぽ

きっかけは韓国人ベーシストのLee Dongheeから送られてきたメッセージだった。9/28に京都の耳塚でセレモニーがあるんだけど、一緒に何かやらないかと。ちょうどmimacul『さよなら明るい尾骶骨』の稽古前だった。稽古場は三条、耳塚は七条。行けるではないか!

耳塚に来たのは初めてだった。中学の歴史の教科書のコラムに載っていたのは覚えている。秀吉の朝鮮出兵の際に殺めた朝鮮人の耳や鼻が弔われたものだ。行ってみると、耳塚の石塔の下に人が集い、ハングルが飛び交っていた。開会の言葉が韓国語で語られ、日本人僧侶によるお経、韓国から来た巫女や舞楽団による儀式や演奏が行われた。正真正銘の慰霊祭だった。耳塚という100平米にも満たない空間の中で、韓国の舞踊が次々と展開され、また一方ではおにぎりとキムチが振舞われたいた。私は場に圧倒されながらも、400年以上も前の死者を我が事として弔うこと、その行為に通ずることー植民地、両国の人の行き来き(連行や移住)、戦下で行われた惨事、昨今の経済と政治の施作とナショナリズムが絡み合って報じられる対立ーに思いを巡らせた。その一方で、慰霊のもとに行われる壮観なパフォーマンスとそれを受容する人たち、目の前で起こる出来事にただただ目を見張っていた。日本人の私と、韓国から日本にやって来たDongheeと、私たちはここでどんなことを何をするのだろか、と。

私たちの出番は、本プログラムの後のお昼休憩の手前にねじ込ませてもらった。韓国から来た舞楽団の人たちの真剣な眼差し、中心にそびえる耳塚の石塔とそこに眠る死者、お昼のキムチとおにぎりをほうばりつつこちらをうかがう人々(場の流れ上ほとんどお昼タイムだったので無理もない)の中で。Dongheeは石塔の前の石畳の上にいた、私は主催者や楽団のいる側、石塔に向けて、最後に和やかにキムチを食べる輪へと移動してゆく。集った人への挨拶の気持ちや、自分なりの耳塚の死者への対面、今ここにいることのみをやった。

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パフォーマンスの後、チャング奏者のYang Hyang Jinさんに出会った。その場では束の間の挨拶しかできなかったが、その後のメッセージのやり取りで、私たちは韓国のお祭りで再びパフォーマンスをすることが決まった。

 

この慰霊祭で、私は韓国の珍島というところに朝鮮出兵文禄・慶長の役)にまつわるもう一つの墓があることを知った。この戦で討ち死にし岸辺に流れ着いた日本兵士の死体を、現地の村人が埋葬した場所で、そのことにちなんだ倭徳山(ウェドゥクサン)という地名が今も残っている。

 

実際にここを訪れた。なだらかな丘の斜面に土饅頭の名残りであるコブのような丸みが幾つもみられた。植物の繁殖や風雨に晒され自然による風化の一途を辿っていた。石碑もなく、地名と口伝に残るのみだが、死者と生者の細く長いつながりが感じられた。傍らに白いタンポポの花が咲いていた。

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目の前の田園地帯は昔は海だった